ありふれた時間が、愛しく思えたら。 ――それは“愛の仕業”と小さく笑った。 「ごめんね、菊丸君。急にこんな風に呼び出したりして」 「ううん、大丈夫。気に、しないで」 菊丸の言葉にうん、と小さく頷く彼女は屋上の上、ふわりと制服のスカートを秋の風になびかせる。 僅かに夏の名残のある風の吹く放課後の屋上は人の気配はなく、でも確かに秋の気配を感じさせる夕日の沈むその光景は、胸に迫るように美しく、切ない。 まっすぐな瞳で菊丸を見詰める彼女は、3年で同じクラスになって以来親しい、クラスメイトだった。いつもは屈託なくとても明るく笑うのに、今はほんの少し苦しさを滲ませて微笑む彼女に、菊丸は微かに微笑み返す。 菊丸のその笑みは優しくて、でも寂しそうで、切なそうで。彼女もその微笑みの意味を、すでに悟っているようだった。 「私ね、菊丸君にずっと言いたかったことがあって。言わないと後悔する気がしたから、だから……」 「……うん」 切なげな表情で笑い屋上のフェンスにもたれかかる彼女に、菊丸は真摯な表情で答える。 「――私ね、菊丸君のことが、ずっと好きだったの。1年生の頃から」 そう呟くように言った彼女の、無理に明るくもちあげられた唇が微かに震えているのを知っていて、でも菊丸はまっすぐに彼女を見詰め返した。誤魔化さず、偽ることなく。 「…ありがとう。こんな俺のこと、好きになってくれて。でも、俺……大切な人がいるんだ」 ――ずっとずっと、側にいて、守っていきたい人が。 「だから、君の気持ちには応えられない。……ごめん」 頭を下げる菊丸に、彼女は小さく微笑み返す。諦めを内に含んだ表情は痛々しいほどに優しく、暖かかった。 「ううん、謝らないで。分かってたから。でも、どうしても伝えたかったんだ」 そう言って空を見上げた彼女に合わせるように、菊丸も視線を空に移す。 綺麗な茜色の空に、太陽の光が当たった雲が銀色に輝いている。 「私、青学の高等部には進まないんだ。父親の仕事の関係で。……私達、もうすぐ卒業でしょう?そしたら、こんな風にはもう会えなくなる」 「そうだね……」 「だから、言っておきたかったの。後悔しないように、何年か後、同窓会の時に菊丸君に会っても笑って話せるように。……ごめんね、私の自己満足につき合わせて」 「ううん、そんなことない」 「…でも、嬉しかった。好きな人がいるのに、適当にあしらおうと思えばできるのに、菊丸君、ちゃんと私の言葉に答えてくれたから。それって、それだけ菊丸君が真剣に相手の人のこと大事に思ってるからだよね。だから、きちんと真剣に私のことも断ってくれた。――きっと、凄く優しい人なんだね」 ――菊丸君の、大切な人って。 そう言って笑った彼女の微笑みは、嘘じゃなかった。 だから、菊丸は、ほんの少しだけ。 ほんの少しだけ切なくて、彼女ではない愛しい人のことを思い胸が痛くなって、でも。 「……ありがとう」 とてもとても、――救われた。 「菊丸先輩、ねえ、菊丸先輩!」 突然耳元で聞こえた愛しい人の声に、はっと菊丸は我に返る。 「…え?あ、何か言った?オチビ」 「さっきからずっとボーっとしてるっすよね。菊丸先輩」 「え?そ、そうかな」 動揺を隠そうとする菊丸に、リョーマは身体の向きを変えきちんと菊丸に向き合って、視線を合わせる。 「どうかしたんすか?」 「え?何が?」 心配そうに問うリョーマに、菊丸は微笑みかけようとした。すると。 「笑って誤魔化そうとしたって無駄だよ、俺には分かるから。何かあったんでしょう?…俺には、話せないこと?」 そう真剣で、それで自分を案じる瞳で言われてしまって、菊丸は俯いてしまった。 「話せないってわけじゃないんだ。でも……」 「でも…?」 「言いたくない、ってのが、本音かも」 そう言って、菊丸はリョーマのまっすぐな瞳を封じるように、自分の腕の中にぎゅっと彼を閉じ込めた。 「それは、俺が辛くなるような内容だから、ってこと?」 暗に菊丸の心変わりを匂わせた、ほんの少しくぐもって聞こえるリョーマの言葉を、菊丸は首を振り、彼を強く抱きしめることで否定する。 「違うよ。ただ、もうすぐこんな風に会えなくなるんだって、そう思ったら凄く苦しくなって……こんな風に思うのって女々しいかなって、ちょっと思うけど」 裸の胸に最愛の人を抱き寄せると、その柔らかい髪をそっと撫でながら、菊丸は呟いた。 菊丸は、3年生だ。だから当然、来年春が来たら、この青春学園中等部を卒業することになる。――最愛の恋人、越前リョーマを残して。 菊丸とリョーマは、部活の先輩後輩の関係だった。お気に入りの後輩に、自分に懐いてくる先輩。そういう二人だった。 でも、いつの間にか菊丸の中には、それ以上の気持ちが生まれ、育っていて。 引退を機に、思い切って告白したのだ。たとえこれから先、部活を離れてなかなか会えなくなっても、後悔したりしないように。 いつになく真剣で、それでいて怖がるような瞳で思いを告げた菊丸に、リョーマはあっさりと微笑んで言ったのだ。 「奇遇っすね。俺も菊丸先輩のこと、ずっと前から好きだったっすよ」 それからは、毎日が楽しかった。 恐る恐る手をつないで映画を見たデートや、震える唇をそっとあわせた初めてのキス、互いの行き場のない思いを伝え合い、言葉で補えないものを交し合った夜。 いつか来る別離までの時間を惜しむように、毎日はしゃいでいた。 でも。 今日の彼女との出来事に、菊丸は改めて思い知ったのだ。そのときはもう、すぐ側まで迫っているのだと。 「ふうん、そんなことがあったんだ」 情事の名残を消した部屋で、正直に今日の出来事を、菊丸は話した。リョーマには嘘をつきたくはなかったし、何より今の自分の気持ちを、リョーマに分かってほしかったから。 「その人、いい人だね」 「うん。凄く仲の良かったクラスメイトだった。何でも積極的で、明るくてちゃんと人のこと気遣える人で、凄く人気のある人でさ」 「好きな人の好きな人のことをそんな風に言えるなんて、きっとその人は、本当に菊丸先輩のことが好きなんだね」 そうじゃなきゃ、できないよ、相手の幸せを願うなんて。自分の心の痛みを隠してまで笑うなんてさ。 そう言って、リョーマは、ひどく深い瞳で菊丸を見詰める。 「……ねえ、菊丸先輩」 「何?オチビ」 「俺さ、菊丸先輩のこと、ちゃんと好きだよ?」 思いがけないその言葉とまっすぐな目、そのきらきらした美しさに、菊丸は息を止める。 「確かに俺達には、2年の差があって、それは埋められないけどさ。でも、そんなの、俺達のせいじゃないでしょ。それに、こんな風にお互いがお互いを大切に思えている事実だって、菊丸先輩が生まれて、俺が生まれて、ここで出会って。そのもの凄く少ない確立の中から神様に選ばれたことなのかもしんない。それならさ、高々2年の差なんて、高等部と中等部の距離なんてさ、全然大したことじゃないって、そう思えない?」 そう言っていつもの不敵な笑みを柔らかいものに変えたリョーマは、ただただ優しくて。 菊丸は、こくこく頷くと、少し涙を滲ませて笑った。 「そだね。……そうだよね」 不安がないわけじゃない。お互いの気持ちは、いつでも見えるわけではないから。 時々は傷つけあうこともあるかもしれない。身勝手な言葉で、相手を悲しませることもあるだろう。すれ違いの日々に何度も謝罪と労わりの言葉を重ねながら、恋しさに眠れぬ夜を過ごすこともきっとある。 時間は確実に過ぎていく。時に優しく、時に残酷に。 でも、それでも、いつもこの体温を感じていたい。心で、体で。この胸の中に、優しい明かりを灯すように。 こんな風に側にいられるありふれた時間を、何よりも愛しく思えるから。 「ずっと俺は、いつも菊丸先輩を思うから。だから菊丸先輩も一瞬でも俺を忘れないで。そうすれば、大丈夫。2年なんてあっという間だし、そのさきはっといいやり方を見つけることだってできる。……だから、心配しないで」 そう言って、本当は口で言うほど簡単じゃないのに、そのことだってちゃんと分かっているはずなのに。それでも、それを不可能なんて、信じないなんてこと一瞬でも考えていない、一瞬でも思いつかないという風にごくあっさり微笑んでみせるリョーマに、菊丸は明るく笑って言った。 ――そう、それは、自分にだけに向けられた、愛おしさを表すサイン。それは確かに、菊丸を強くさせる。だから。 「うん。ありがとう……リョーマ」 何ひとつ見落とさないように、いつもお互いを側に感じながら。 そうやって、俺達は。 ずっとずっと、ここで。お互いに寄り添って。 一緒に、生きていこうね。 出会って、思いを寄せ合って、そして。 残された時間が、僕らにはあるから。 ――大切にしなきゃ、と、小さく誓った。 (END) |
初のSSです。これも石綿咲穂様の企画、菊リョ祭に投稿させて頂きました。ミスチルのsignに一時期もの凄くはまって、その時に出来たお話。 残される方、残す方。どちらがより寂しいのか、分からないけれど。たとえどんなに強く思いあっていても、でもそれまでの距離とは確実に離れてしまうのは、やっぱり寂しいですよね。そんな切なさが少しでも表現できていたらいいな、と思います。 最後になりますが、石綿様、企画に参加させて頂きまして、有難うございました! |